“樫の木の人”と呼ばれるほどの強い信仰を持ち続けた聖クレメンス・ホフバウ アーは、教会史のなかでも名高い司祭です。ドイツ人として初のレデンプトール 会員となり、35才で司祭に叙階された彼は、当時戦争の荒廃と分割にあえいでい たポーランドのワルシャワで修道院を建て、孤児の救済に奔走した人物でした。 また辻説教などを通してうちひしがれた人々の霊的な援助にも努力を惜しみませ んでしたが、独立戦争の気運が高まり、ナポレオンが進軍するにおよんでポーラ ンドを追放され、ウィーンにたどり着きます。しかしここでも彼は孤児院を開設 し、学校をつくり、病床にある兵士たちを励ます活動を精力的に行いました。や がてすべての階級の人々に親しまれるようになり、風前のともしびだったこの街 のカトリック信仰を再び燃え立たせることに成功したのです。 この成果から彼は“ウィーンの使徒”とも称され、1909年に聖人に列せられました。聖クレメンスがいなけ れば、レデンプトール会も現在のように全世界にあまねく拡がることはなかったでしょう。彼はそれまでイタ リア内でのみ活動していたこの修道会を、はじめてアルプス山脈の北側に導いた会員です。1820年3月15日 に帰天。遺体は現在、ウィーンのマリア・シュテーゲン教会に安置されています。
 
「キリストのご受難、われを強めんことを」をモットーとして独立したばかりの アメリカで司牧に専念した聖ヨハネ・ノイマンは、広大な新大陸にカトリック信 仰の礎を築いた人物です。 当時アメリカではフランス・ドイツ・アイルランドから移住してきたカトリック 教徒は異端視され、その多くが貧困のうちにありました。ボヘミアに生まれ、海 を渡ってニューヨークで司祭叙階したヨハネ・ノイマンは彼らのために身を粉に して働いていましたが、過労のために倒れ、その療養中にレデンプトール会を知 り、入会します。そして会員となった後は前にもまして貧しい人々を助けなが ら、管区長代理、神学校校長として活躍。1852年にフィラデルフィア教区の司 教に任命されると、聖アルフォンソと同じようにしいたげられた人々のために司教館を開放し、一方では青少 年のために百以上もの学校を設立して、教育者としても名を残しました。 いまも人々は彼を“アメリカの学び舎の司教”と呼び親しんでいます。死後約100 年後の1963年に列福、そ して1977年に列聖されました。
 
死にいたるまで、しかも十字架上の死にいたるまで、御父に従われたキリスト。 聖ジェラルドの生涯もこれと同じく、天の父への完全な従順に貫かれています。 幼いころから病弱だった彼は、早くから召命を確信していながらも入会を長い間 拒まれ、やっと念願がかなったのは1749年、23才のときでした。3年後に終生 誓願を立て、修道士としての勤めを果 たしながら、29才で亡くなるまで貧しい人 や病人に献身的に奉仕し続け、多くの回心をうながしています。またあるとき難 産に苦しむ女性を助けたことから、後にはお産の守護聖人と呼ばれるようになり ました。 「ご聖体は見えないキリストですが、病人や貧しい人は見えるキリストです」と いつも口にしていた通り、彼らの中に救い主を見いだし、自分自身もそのようになりたいと熱望して、残され た生涯を捧げつくした聖ジェラルド。キリストがそうであったように、その神への限りない信頼と完璧な委託 は、修道者の鏡として称えられています。1793年に列福、1904年に聖人の位に上げられました。
 
1982年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福されたペトロ・ドンダースは、 酷暑と熱病、貧困にあえぐ南米大陸で献身的な働きをしたレデンプトール会員で す。 みずからもオランダの貧しい家庭に生まれた彼は、1841年に32才で司祭に叙 階。1年後には当時オランダの植民地だった南米のスリナムで宣教活動にたずさ わります。密林が繁り、猛獣や毒蛇がひそみ、マラリアや黄熱病がはびこるこの 地で、ペトロは貧しい人々、病気の人々のためにわが身を惜しまずに働きまし た。とくに後半の30年間は、そのころもっとも恐ろしい病気とされていたハンセ ン病患者のために生涯を捧げています。1860年にスリナムでの宣教はレデンプ トール会にまかされることになり、多くの同国人司祭が帰国しますが、青年期に同会への入会を希望していた ペトロは現地に残り、51才でついに長年の夢をかなえます。そして77才で生涯を終えるまで、レデンプトー ル会の精神そのままに、原住民や奴隷、病気の人など、もっとも見捨てられた人々のために尽力し続けたのでした。 その聖性は、いまも多くの人々に感銘を与えています。 
レデンプトール会の聖人・福者たちのなかで最近、1996年に列福され たジェンナロ・サルネリですが、彼は聖アルフォンソと同時代を生き、修道会の 成立初期に創立者の右腕となって活躍した人物です。 1702年にナポリの貴族階級に生まれ、法律学を修め、余暇を救貧院での手助け などで過ごしていたサルネリは、その活動のなかでアルフォンソと出会い、司祭 叙階後にレデンプトール会に入会します。そして実家のあるチオラニでの修道院 設立などに協力しました。彼の宣教活動の特徴は、しいたげられた人々、とくに 売春婦たちの社会復帰に努めたことです。また11年間に30冊以上もの著作を発 表しました。 しかし彼の列福は、この多彩な活動によるものではありません。その内面、つまりもっとも底辺にいる人々の 立場で考え、福音を宣べ伝えたことにあります。それは、神における人間の尊厳の意味をこれらの人々が自分 たちで見いだし、体験するべきだと彼が考えていたからです。 アルフォンソが亡くなる40年以上も前に42才で帰天しますが、彼の行動はそのままレデンプトール会の霊性 を体現したものでした。
 
フランシスコ・ザビエル・シーロスは、2000年4月9日、教皇ヨハネ・パウロ2世より福者に上げられました。司祭を目指して勉強していた大神学校時代にレデンプトール会の司祭達との出会いがあり、その修道会が見捨てられた人々のために創立された会であることを知り、また修道会がアメリカに移民した人々のために働いていることも知りました。レデンプトール会に入会し、自らの希望でアメリカに渡り、各地で霊的指導を行い、聖ヨハネ・イノマンと共に生活し、共に働き、彼と同じ司牧精神をもって、贖い主イエス・キリストの模範に従い、一生を捧げました。
 
       
 
Congregatio Sanctissimi Redemptoris